第2講 イギリス憲法の基本原理−議会主権−

 イギリスにおける主権原理は、「議会主権」〔Parliamentary Sovereignty〕である 。これは、1988年の名誉革命によって一応の成立をみ、19世紀に後半にダイシーによって明確な憲法学的弁証がなされ、今日においても、イギリス憲法の基本原理ないしは基本的枠組みをなすものであると考えれられている。 ここでは、その歴史的背景、日本における主権論との違い、イギリスでの議論の内容、そして、最後に、基本原理たる「議会主権」が修正を迫られている事情について、それぞれ概観することとしたい。
1、議会主権と国民主権〜何がどう違うのか〜

(1)議会主権の歴史的形成

イギリス市民革命は、一旦は共和制まで突き進んだが、王政復古の反動を迎え、結局、妥協的な色彩の強い、名誉革命体制の成立をもって終わった。そのことは法形式的な面に色濃く現れている。市民自身が抽象的一般的に国家権限の源泉であるという議論によって組み立てられているのではなく 、従来の国王の権限のあり方をあらためて、それを制限するとし、さらに、国民の意見を国政に反映させるしくみとして、国王とともに議会(庶民院と貴族院)が国政を決定するというしくみを作り出した。その結果として、抽象的な「国民」が主権を有するとするのではなく、国王と庶民院と貴族院からなる「議会」が政治的意思の最終的権威であるとされるようになった。
比喩的な言い方をすれば、国王の権威を否定するのではなく、議会の中に飲み込むことによって、新たな権威を作り出したのである(その結果として、国王の権威は、議会の権威の下に置かれることになるのであるが、否定されたわけではないので、封建的な色彩の制度が議会によって否定されない限りにおいて残存することとになるのである)。

(2)国民主権とはどう違うか?

日本国憲法を学ぶときには、主権論といえば、国民主権である。それ以外の主権論というものをあまり聞かないので、かえって、国民主権であることの大切さを意識しないかもしれない。憲法の講義でよく説明されるように、「主権」は、対外的な独立性、統治権、そして最高の政治的意思という3つの意味で用いられるが、国民主権というときには、最高の政治的意思という意味における「主権」が問題となっている。つまり、「国民主権」とは、国民が最高の政治的意思の決定者であるという意味である。これに対して、議会主権の場合には、主権の意味が、3つすべてを含むと考えられる。つまり、王の主権にかわる主権の担い手が具体的な議会とされるのである。したがって、対外的な独立性という意味でも、議会主権が問題となる。たとえば、EUとの関係で問題とされるのも、イギリスの国家主権ではなくて、議会主権が制約可能なのかという形で論じられる。また、統治権の場合でも、国王の権限が司法権の源泉とされ行政も「国王の政府」とされ、それを上回る存在としての議会が想定される。さらに、最高の政治的意思という意味での主権が問題となる場合を考えると、国民主権論において、「国民」も当初は、きわめて抽象的な概念であり、純粋代表制的理解にたてば、「国民代表」は議会とされ、議会主権論と国民主権論との実態的差違は大きくないものの、現在においては、国民主権論においては、具体的な一人ひとりの国民がイメージされるようになってきているにもかかららず、議会主権論においては、相変わらず、議会は君主と庶民院と貴族院であり、国民自身が主権者であるとされることはないのである。

2、議会の最高性についてのダイシーの見解

 議会主権を明確に定式化したイギリスの憲法学説であるA.V.DiceyのIntroduction to the Study of the Law of the Constitution (1885)にもとづいて、議会主権の内容を紹介すると以下のようになる。
 まず、「議会とは、法律家がそれを口にするとき(通常の会話では、この言葉は、しばしば違った意味をもつが)、女王、貴族院および庶民院を意味する。この3つの機関が共同して活動するとき、正しくは、『議会における女王』〔Queen in Parliament〕と表現されうるのであるが、それが議会を構成する。」(ダイシー39頁)
 そして、議会主権の原則とは、「議会が、イギリス憲法の下で、いかなる法をも作り、または廃止する権利をもつこと、さらに、いかなる人も機関も、イギリスの法によって、国会の立法をくるがえしたり、排除する権利をもつとは認められないこと、これ以上のことを意味しないし、これ以下のことも意味するものではない。」(ダイシー39頁)とされる。  この原則からは、以下の諸点が導かれる。
 「第一に、議会が変更しえない法は存在しえない。あるいは(同じことを幾分違った形で言えば)、基本法すなわちいわゆる憲法的法も、わが憲法のもとでは、他の法律と同じ機関により、同じやり方で、つまり、通常の立法部の性格で行動する国会によって、変更されるのである。」=軟性憲法
 「第二に、イギリス憲法の下では、基本的もしくは憲法的でない法と、基本的もしくは憲法的である法との間にめだったまたは明確な区別が存在しない。したがって、通常の法を変更できる「立法」議会のみでなく、憲法的、基本的法をも変更できる「憲法」議会との間の違いを表現する言葉そのものも、諸外国の政治学的術語から借用されなければならないのである。」=成文憲法の不存在、
「第三に、イギリス帝国のどの部分にも、イギリスの議会の制定した立法を、それが憲法に反するという理由で、あるいは、もちろんそれが議会によって廃止されることは別として、どのようなものであれ何らかの理由で、無効であると宣言できる者や機関は、行政部であるか、立法部であるか、司法部であるかを問わず、存在しないのである。」=違憲立法審査制の不存在、(拘束的)国民投票制の不存在
 これが現在において伝統的な学説として通用しており、いろいろ現状にあわないとの批判がありつつも、一応の議論の出発点として考えられているものである。以下で言及するようにいろいろな批判や修正意見などもだされているのであるが、その明確さゆえに、いまなおこのような考え方が、議論の出発点となっている。

3、議会の権限の範囲についての法的制約

(1)議会主権の地域的・内容的無制約性

 議会はいかなる主題についても法を制定することができる。また、議会の法は、いかなる場所にいる、いかなる人の活動をも規制することができる、とされるのである。「もし議会がパリの街角でたばこを吸うことを犯罪であるとすれば、イギリスの裁判所の目からは、それは犯罪である」(ジェニングス)とさえ言われる。そのような法を実際に執行・実行することは実際は不可能かもしれないが、そのような現実的困難さと理論的な可能性の問題は別であるとされているのである。  また、人権論とのかかわりで言えば、法によっても侵すことのできない固有の人権という考え方自体が成立しない。では、どんどん人権が侵害されていて悲惨な状況になっているのかというとそうではないのであるが、法理論的に、法によっても侵すことのできない人権という考え方が成立しないのである。

(2)後の議会を拘束する権限はない

議会は万能であるが、ひとつだけできないことがあると言われる。それは、後の議会を拘束することである。「のちの議会はこの法律を改正できない」と規定したとしてものちの議会も万能であるので、改正することに法的な制限はない。したがって、今の議会はそのような規定を作れはするが、将来の議会も万能であるため、その議会を拘束することができないことになるのである。

(3)議会を通過した法律は裁判所においては審査できない

 議会主権の下では裁判所などが立法の合憲性・合法性を審査することはできない。議会によって作られた議会制定法は最高の法的権威をもつのであるから、それを裁判所が否定すること、あるいは、適用しないことなどをすることはできない。したがって、違憲立法審査制が成立する余地はない。

4、議会の権限の範囲についての現実的制限

(1)現実的制限としての外的制限と内的制限

 ダイシーによれば、「主権者の実際の権能に対する外的制限は、彼の臣民あるいは臣民の大部分が彼の法に従わず、または抵触する可能性ないし確実性からなっている」とされる(ダイシー72頁)。そして、その具体的な事例をあげさらにつぎのように説明する。「国会は、法的にはスコットランドで聖公会を国教とすることができよう。国会は、法的には植民地に課税することができよう。国会は、いかなる法にも違反することなく、王位継承を変更し、君主制を廃止できよう。しかし、誰もが、現在の世の中の状態では、イギリス国会が、このようなことをどれもやれないことを知っている。いずれの場合も、たとえ法的には有効性であって、事実上、国会の権力の範囲をこえた立法から広範な抵抗が起こってくるであろう。」(ダイシー73-4頁)という。 内的制約とは、「主権者自身の性質から生じる。」として、現代の国会であれば、植民地への課税をするような立法をしないであろうという(ダイシー74-5頁)。

(2)代議政治は、外的制限と内的制限を一致させること

 ダイシーは、「政治政治の本質的な属性は、主権者の要求と臣民の要求との間の一致を見出すこと、要するに、主権の行使に対する二つの制限を一致させることだという点だけである。このことは、その限度ですべての真の代議政治に妥当するが、イギリスの庶民院についてはとくに正しく当てはまるのである。」(ダイシー77頁)とし、これを法的主権者である国会と政治的主権者である選挙民との一致を生み出すのが代議政治であるとも表現している。

5、修正を迫られる「議会主権」

(1)EC加盟と「議会主権」

 単純明快ではあるが、現実場離れしているこの「議会主権」論をイギリスはなおも貫くことができるであろうか? 実際的な影響として、問題視されているのが、EC法の影響である。 EC加盟が議会主権に対して実際上の制約のみならず、法的な制約をもたらしているとする意見もある。伝統的見解は、何でもできる議会主権が、 EC法を受け入れると決定しているので、イギリスで EC法が通用するのであると反論するかしれないが、今後、経済政策や従来国内政策の問題であるとされてきた事項にヨーロッパ同盟による立法の規制が及ぶようになると、事実上の制約のみならず、法的な制約と観念されるかもしれない。

(2)EC法と1972年ヨーロッパ共同体法

すでに説明したように、国際法(たとえば、条約)はイギリス政府がそれを批准するだけでは、イギリス国内法としての法源とはならない(国際法と国内法の二元論)。したがって、国内法化の作業、すなわち、同趣旨の議会制定法を制定する必要があるが、EC法の場合には、EC条約のみならず、ECの各機関が制定する規則や指令などが数多くあり、それぞれについて制定法化するのはきわめて煩雑なものとなる。そこで、1972年ヨーロッパ共同体法の制定によって、EC法が国内法化を必要としないでイギリス国内法としての効力をもつことのできるしくみを作り出したのである。
1972年ヨーロッパ共同体法第2条第1項は、 「時宜により、基本諸条約により創設される、またはそれらに基づいて生ずるすべての権利、権限、責任、費務および制限、並びに時宜により諸条約によりまたはそれらに基づき規定されるすべての救済手段および手続きであって、基本諸条約に従って改めて連合王国において法を制定することなく法的効果を与えられまたは実施されるものは、法として承認され、執行することができるものとし、それ故、強行され、容認され、遵守されるものとする。また、「強行可能な共同体の権利」およびこれに類する文言は本項が適用される権利に言及しているものとみなされるものとする。」 と定めている。
 この規定は、「改めて立法手続をとらなくても」国内法としての法的効力が発生すると定めているのであるから、無制約の「議会主権」によって、従来のイギリス法の基本原則である国際法と国内法の二元論をEC法に関しては、否定したことになる。 ところで、議会主権の伝統的な理解によれば、EC法と異なる制定法を議会が制定した場合には、「後法優先の原則」で、議会制定法が優位することになる。しかし、EC法の立場から言えば、EC法はつねに国内法よりも上位に位置することになるはずであり、国内法によって廃止されるべきではないことになる。 このような対立を回避するために、できるだけ議会制定法をEC法の趣旨に適合するように解釈する手法をもちいることは予想されることであり、かつ、1972年ヨーロッパ共同体法もその旨の規定を置いている。 たとえば、1972年ヨーロッパ共同体法第2条第4項は、 「可決される、または可決される予定のいかなる制定法も、本法本部に含まれているものを別にして、本条の前記諸規定の条件に服して、解釈され、かつ、効力を有するものとする…。」 また、さらに、第3条第1項は、 基本条約または共同体文書の効力に関するいかなる問題も、「ヨーロッパ裁判所によって定立された原則及びそのいずれかの関連判決に従って」決定されるべきであるとするのである。  しかしながら、このような解釈手法にも限界があり、制定法が明確にEC法と矛盾する場合には、どうなるのであろう?

(3)裁判所は、どのように対応したか?

  EC法と議会制定法が食い違うときには、議会主権の伝統的理解にたてば、当然に議会制定法が優位することになる。しかしながら、ヨーロッパ統合の進展は、それを許さない状況になる。他の各国でもそのようなことが問題になるが、その場合には、憲法改正をおこない、 EC法との整合性を確保する努力をすることになる。
そして、イギリスでは、ついに、EC法の優位を認める判決が下されることになったのである。EC法により漁獲割当が導入されたのに伴い、イギリスは1988年商業船法を制定して国内の漁民の保護を試みた。これは、外国人がQuota-hopping(割当飛び越し)、たとえば、この国で会社を登録することによって、イギリスの漁獲割当を一部分を確保することを防止することを定めていた。この方法によってイギリスの割当を利用していた多くのスペイン漁民が、商業船法はEC法(この場合は、EEC条約7条、52条、58条、221条など )に基づく彼らの権利を侵害しているとして、訴訟を提起した。
          貴族院は、暫定的救済を保障することを拒否した。しかしながら、貴族院は、もしヨーロッパ司法裁判所が申請人に有利な判断を示した場合には、イギリスの裁判所は救済を見出さなくてはならないし、これは商業船法の条項の適用を拒否することを意味することを認めた(R. v. The Secretary of State for Transport, ex p. Factortame Ltd.[1990]2AC85)。ヨーロッパ司法裁判所は、先決裁定の手続 において、国内の裁判所はEC法が十全な効力を発することを妨げている国内法をしりぞけなければならないとの判決を下し、それを受けて、貴族院は、申請が強い明白な理由に基いており、暫定的な救済の理由があるなどの理由で、その法律が効力を発するのを妨げる暫定的救済を保障した。かくして貴族院は、同法の適法性に効果的に挑戦し、商業船法の機能を停止した(R. v. The Secretary of State for Transport, ex p. Factortame Ltd.( No,2)[1991]1AC603)。
このようにEU統合の進展は、伝統的なイギリス憲法の原理である「議会主権」に対する修正をイギリス国内の裁判所の判決という明確な形で受け入れることを強いたのである。伝統的な枠組みの変容という形をとるものの、第1に、国際的あるいは地域的機関による国家の対外的主権の制限 、第2に、裁判所による立法府に対するコントロールの拡大という普遍的な現象のイギリス的なあらわれ方であるとみることもできよう。