ホッブスとルソー

 ここでは、ジョン・ロックを社会契約説の典型として紹介したが、他に社会契約説を唱えた論者としてトマス・ホッブスとジャン・ジャック・ルソーがいる。トマス・ホッブスは『リバイアサン』(1651年)の中で、人間は自然状態においては自由という自然権をもつがゆえに、戦争状態に陥り、それを不正で平和を築くためには絶対主権をもった国家に自然権をゆだねるべきであると主張した。自然状態を平和な状態であると考えた点でロックとの相違がある。 ルソーは、『社会契約論』(1762年)で、自然状態での人間の自由と平等を出発点としつつも、社会契約においては、各人の権利の全面的な譲渡が主張される。すなわち、「各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡することである。その理由は、第一に、各人は自分をすっかり与えるのだから、すべての人にとって条件は等しい。また、すべての人にとって条件が等しい以上、誰も他人の条件を重くすることに関心を持たないからである。」(p.30) そして、つくりだされた社会においては、人民の一般意志が最高とされ、それは絶対的であり、あやまることもなければ、例外もないとされるのである。社会契約において全面的な譲渡を想定する点においてジョン・ロックと大きく異なり、この点が主権の絶対性を導くから、主権によっても侵害されない人権という発想を否定する契機をもっていたことは注意されるべきである。以上のことから、ここでは、近代憲法の発想を説明する思想としては、ジョン・ロックがもっとも適切であると考える次第である。さらに敷衍すると、ホッブスは、個人が基本的に調和的な生活を営むことができるとは想定せず、自然状態は必然的に戦争状態に至らざるを得ないと考え,それを克服し安定した生活を実現するために絶対無制限の権力が必要であるとした。これに対して,ロックは、個人が基本的に調和的な生活を営むことができることを肯定し、自然状態は自然法が妥当する安定した社会であるが、ときに例外的に紛争が発生した場合に、便宜的に、それを解決・調整する強制力が必要とされると考え、それに必要なかぎりで契約に国家権力を創設するものとした。したがって、その目的にふさわしく国家が行動しないときには、抵抗権が人民の側にあると主張したのである。ルソーは、各人が自らの自然権を全面的に国家に譲渡することにより、人民自身が一般意思を明らかにし、それに各自が従うことにより、誰もが従属することのない平等な社会が実現できると主張した。ここでは、自然権は全面的に譲渡されているのであるから、各人の手元に残っている権利は想定されず、政治権力に対する制限の理論は出てこない。しかし、国家は人民全体の意思を十分に反映すれば、各自の意思に反するような政治はおこなわれないはずであると考えられるのである。自由主義思想ではなく、民主主義思想といわれるゆえんである。さて、これら3者の対比は、単なる過去の学説史にとどまらない。私たちが自分たちの生きている社会をどうみるかという基本的視点を提供してくれる。ホッブス的に世の中をみれば、一人ひとりの個人は、欲望のままに生きていく存在であり、それを無理やり制約しないと何をするか分からないので、法律で縛っているのであるという社会イメージということになろう。しかし、ロック的にみれば、ふだんは、理性が働いてそれなりに仲良く暮しているが、ときどき紛争が起こるので、そのような場合にかぎって法律や裁判で紛争を強制的に解決してもらい、また再び平穏な生活に戻っていくと考える。それ以外には国家は余計ない口出しをすべきではないとされるのである。しかし、ルソーのように、考えれば国家は他者ではなく、つねに人民の意思にもとづいてみんなの除くことを実現してくれると想定されることになる。それだけ、お互いの意見の一致を実現することが可能で、みんなの意見を反映した政治が行なわれることが考えられるであろうか。おそらくは、ロックの描く世界が、人々の一般的な社会のイメージに近いのではないであろうか。