第15節 戦争と国家とのつきあい方〜「戦争の放棄」の意味〜

(1)戦争と国家

 

 軍事力という国家権力の一部をコントロールすることは、憲法上のきわめて重大な関心事でした。なぜなら、君主が恣意的に軍隊を動かすと、国民に膨大な課税負担をもたらし、生活の破壊をもたらしたからです。  そこで、市民革命とともに、侵略戦争の放棄が確認され、さらにいわゆるシビリアン・コントロールが徹底化していくことになります。そして、現代においては、国際法上の「戦争の違法化」を背景として、戦争がたとえ「民主的に」おこなわれても、それへの参加を拒否する権利が人権として認められるべきではないかということが議論され、認められるようになっています(いわゆる良心的兵役拒否権)。

「戦争の放棄」という特殊な選択

 憲法9条の「戦争の放棄」条項は、このような流れの先にあると言えるでしょう。国家として、戦争を「民主的に」おこなうこともできないという選択をしたのです。日本の戦前の経験から、多くの人たちは、「戦争はもうイヤだ」と考え、民主主義が十分うまくいかなかったのは帝国軍隊が存在しクーデ・ターを企てたりしたことも大きな原因であると考えています。しかし、他の多くの国は、いまだに軍隊を民主的にコントロールすることは可能であり、自衛のためには具体は必要であると考えているようです。そこから考えると、憲法九条という選択は、反民主主義的な軍隊だけではなく、民主主的ないい軍隊であっても持たないということを意味していることになります。  このような特殊な選択は、「非現実的である」と批判もされることもあります。しかし、そもそも軍隊とは人を殺し物を破壊することを専門的な職業とする集団です。そのような手段を用いて平和を守ることが果たして現実的でしょうか? そのような手段を用いるしか私たちの前に選択肢はないのでしょうか? 国際的な平和と日本の安全を確かなものとするためには、もっと確かで安全な方法を日常的に地道に積み上げていくことこそが遠回りでも必要ではないでしょうか。憲法九条は、軍隊という手段を選択することを禁止するのみです。他にさまざまな手段が考えられます。もしかしたら、軍隊をもつ以上のお金がかかるかもしれませんし、人出も必要かもしれませんが、誰をも殺さず、何物をも壊すことなく、平和を築き上げる手段を模索することが求められています。