第2節 日本国憲法の生い立ち

 いままでは、日本国憲法ができあがる歴史の検討が、政府と占領軍とのウラ交渉の部分のみに限られ、これをさして、「憲法は押しつけだ」という主張が「憲法改正」を唱える人々からなされてきました。しかし、なによりもまず、歴史的な事実を丹念に確かめることが大切です。そこで、ここでは、日本の敗戦から日本国憲法ができあがるまでの流れを追ってみます。

(1)敗戦と憲法改正の動き

一九四五年七月二六日にポツダム宣言が発表されましたが、二八日、当時の日本政府の鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を「黙殺」すると発表しました。その後、八月六日には広島に原爆が投下され、九日には、長崎に原爆が投下されました。

 日本は、一四日、ポツダム宣言を受諾し、日本の敗戦が決まります。一五日には、敗戦の玉音放送が全国に流され、国民が敗戦の事実を知りました。一七日には、戦後処理のための内閣として、東久迩宮内閣が成立し、その中には、近衛文麿が副総理格の無任所大臣として入閣しました。

 憲法改正の動きは、この近衛文麿と連合国最高司令官マッカーサーとの一〇月四日の会談に始まります。この日、近衛がマッカーサーを訪問し、憲法改正の示唆を受けたのでした。しかし、同日に発せられた「自由の指令」によって、東久迩宮内閣が総辞職に追い込まれます。そこで、近衛は、一一日に、天皇に内大臣府御用掛に任命してもらい、その立場で、憲法改正作業を進めることになります。しかし、一一月一日、連合国総司令部(=GHQ)は、「近衛の憲法改正作業には関知せず」と発表します。一一月二二日に、近衛はつくった「改正要綱」を天皇に上奏し、二四日に内大臣府は廃止されます。近衛は、一二月六日に、戦犯容疑者になり、一六日に、自宅で自殺をはかります。この結果、近衛の憲法改正作業は実を結ぶことなく、終わってしまうのです。

 このような近衛の動きに対抗して、一〇月九日に成立した幣原内閣は、一三日に憲法問題調査委員会の設置を決定し(委員長:松本蒸治)、二五日に発足します。この委員会の考え方は戦前の憲法である大日本帝国憲法を少し手直しすればいいだろうというというものでした。翌年一九四六年一月二六日に、この調査会での検討は終わり、閣議にかけられます。そして、二月八日には、GHQに政府の憲法改正草案を提出することになります。

 なお、この政府の改正検討作業とならんで、民間でも憲法改正の検討が進められます。たとえば、政党では、共産党、自由党、進歩党、社会党が改正案を示し、あとで述べるGHQの案の作成に影響を与えたとされる憲法研究会の「憲法草案要綱」も発表されました。

 マッカーサー草案の提示

(2) 日本政府は、一九四六年二月八日に、「憲法改正要綱」と説明書をGHQに提出しました。その返事を聞きに行ったつもりの二月一三日に、GHQは、憲法草案(いわゆるマッカーサー草案)を日本政府に交付します。当時の政府は驚きました。  では、なぜ、マッカーサーは、GHQ内部で草案までつくらせたのでしょうか? 少しさかのぼること二月一日に、毎日新聞が「憲法問題調査委員会試案」をスクープし、「あまりに保守的、現状維持的」と批判します。政府案の現状をみてとったマッカーサーは、政府の改正作業を急がせるとともに方向転換を促すため、三日には、GHQ民政局にマッカーサー三原則にもとづく憲法案の作成を指示します。  このようにマッカーサーが憲法改正を急いでいた理由は、マッカーサーの占領政策を監督する上級機関が設置されたことにあります。一九四五年一二月二七日に、米英ソ三国外相会議は、極東委員会と対日理理事会の設置を決定します。その結果、翌一九四六年二月二六日に、極東委員会がワシントンにて第一回会合を開催し、四月五日に、対日理事会が東京にて第一回会合を開催します。これらの委員会が実質的な活動をはじめる前に、自らのふさわしいと考える憲法改正の既成事実をつくっておきたかったのです。そのためには、たとえば、このような草案をつくりなさいと示すのが最も効果的であると考えたのです。  さて、マッカーサー草案を受け取った日本政府代表は、一九日に、閣議に報告します。そして、二二日の閣議でマッカーサー憲法草案にそって憲法を改正する方針を確認します。自分たちの考えていたものとかなり違う草案を示されたにもかかわらず、当時の日本政府が受入れた理由は、なぜでしょうか? それは、この戦争放棄と象徴天皇制が当時において天皇制を残すためにはやむえない選択であるというGHQの考え方を受け入れたからなのです。  こうして、日本政府は、マッカーサー草案をたたき台として日本政府案を作成します。しかも、マッカーサー草案がたたき台であるということは隠して、日本政府が自らつくった案として公表することになるのです。 

  

(3)政府案の発表から帝国議会の審議

  一九四六年三月六日、政府は「憲法改正草案要綱」を勅語・首相談話とともに発表します。当然、マッカーサーは支持を表明します。  その後、四月一〇日に、第二二回衆議院議員総選挙がおこなわれ、一七日には、政府「帝国憲法改正草案」を発表します。二二日には、幣原内閣が総辞職します。当時の国民の関心は、憲法よりもメシにあったと言えるでしょう。それを象徴するのが、五月一日の「食糧」メーデーです。そのような中、五月一六日に、第九〇回帝国議会召集(六月二〇日に開会)され、二二日に、第一次吉田内閣が成立します。  六月八日に、枢密院が「憲法改正草案」を可決し、二五日に「改正案」が衆議院本会議へ上程されます。二八日に、帝国憲法改正特別委員会(委員長:芦田均)へ「改正案」を付託します。七月一日に、帝国憲法改正特別委員会は「改正案」の審議を開始し、二五日に、共同修正案を作成のため、芦田小委員会が設置され、八月二〇日まで審議(非公開)をおこない、二一日の帝国憲法改正特別委員会は共同修正案を承認します。二四日に、憲法改正案が衆議院本会議で修正可決され、貴族院へ送付されます。  一〇月六日には、憲法改正案が貴族院で修正可決され、衆議院に回付され、七日には、衆議院が貴族院の修正案に同意します。  一〇月一一日に、政府は憲法改正案を閣議で決定、枢密院に諮詢手続をとります。二九日に、枢密院が憲法改正案を可決されます。これで、すべての手続が終了したのです。そして、一一月三日に、日本国憲法が公布されます。  一九四七年四月二〇日、第一回参議院議員選挙、二五日には、第一回衆議院議員選挙がおこなわれ、新しい憲法の下での国会議員が勢ぞろいします。憲法を実施するのに必要な法律等も制定され、ついに、一九四七年五月三日に、日本国憲法が施行されたのです。

(4)改正か制定か

 日本国憲法の条文の一番最初のところに付いている「上諭」には、「朕は、…帝国憲法第七三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とあります。日本国憲法は、形の上では、大日本帝国憲法の改正されたものです。  しかし、日本国憲法が考え方の全く異なった大日本帝国憲法の改めたものであるというは不自然です。まったく新しいものをつくったと考えるのが自然でしょう。  そして、国民主権を基本原則とする「日本国憲法」の正当性は、まさに国民自身がそれを作り上げたかどうかにかかっているのではないでしょうか。そのことは必ずしも、国民投票という形をとらなければいけいないということはないでしょう。先に紹介したように、数多くの憲法改正議論が存在し、それらを前提とし、一九四六年四月一〇日に衆議院議員選挙がおこなわれ、さらに、第九〇回帝国議会の貴重な審議を経て憲法が成立したことは、国民による憲法制定のひとつのありうる形であるとみなしうるでしょう。しかしながら、生活が苦しく食糧事情が悪い中で、国民が十分に議論できたわけではありません。国民が十分に議論してその意見が憲法制定に異化されなかった責任は、保守的な憲法案しかつくれなかった当時の政府や極東委員会・対日理事会の「介入」を危惧して憲法改正を急がせた占領軍にあったのです。  このような不十分さを克服する試みがこれまでもなされてきたし、将来も続けられるでしょう。     

読書案内

 古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)、鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の9日間』(創元社)、渡辺治『憲法はどう生きてきたか』(岩波ブックレット)