第20節 憲法改正論議の歴史と現状

 憲法自身が認める憲法の改正に関する議論にタブーがあってはならないと良く言われます。そのとおりだと思います。しかし、いくつか心に止めておいてもらいたいことがあります。

(1) 憲法改正タブーではなかった

 第一に、憲法改正はタブーであったとよく言われますが、憲法改正論議はいままで決してタブーではありませんでした。むしろ戦後政治史は憲法改正論議の歴史であると言えます。たとえば、自民党結成と憲法改正問題は深いつながりがあります。自由民主党結成時に作成された「新党の使命」には、「現行憲法の自主的改正」が使命として掲げられていました。最近では、自民党を飛出した小沢一郎さんたちも含んでつくられた「新・新党」ならぬ「新進党」の方が、憲法改正には積極的のようです。いずれにしても、そのときどき憲法改正が主張されてきたのですが、いままでのところ、国民に受け入れられることなく今日に至っています。「タブー」だという人は、議論に負けたのが悔しくて、もう一度議論をしようとしているにすぎないのです。とりわけ、若い人たちは、いままでタブーだったのなら、議論しなきゃ、と想うかもしれませんが、それは勘違いです。

(2)問題は改正の中味

 第二に、改正論議では、改正すること一般がいいか悪いかを議論しても始まりません。改正を言う人は、一定の改正内容を前提としていることに留意すべきです。それに賛成するかどうかも、その具体的な内容次第なのです。「押しつけ憲法だ」と主張した人々も、望んだ改正は天皇元首化であり、九条の改正であったのです。そして、改正内容の中心をしめているのが昔も現在も一貫して「第九条」なのです。したがって、問題は、改正一般ではなく、軍隊の問題をどうするかということなのです。

 憲法改正を議論しなければとお考えの方は、きっと、「もっと人権をたくさん定めるべきだ。」とか「国民の声が政治に反映されるように民主主義を充実させるべきだ」と思っておられるのでしょう。残念ながら、いままで憲法改正を唱えてきた政治家たちがそのような憲法改正をめざしてきたのではないのです。だからこそ国民に受け入れられなかったのです。

(3)憲法と現実との区別

 ときどき、いまの世の中を良くするには憲法を変えるしかないという意見を聞きます。たしかにいまの世の中にはいろいろと問題があり、それを解決することが求められています。問題が深刻ですから、何か手っ取り早く解決する方法はないかとあせる気持ちもわかります。けれども、憲法の考え方にそっていまの日本社会が成り立っていれば、それも正しいかもしれません。しかし、ここまで、この本を読んでいただいた方ならお分かりのように憲法が掲げる人権と民主主義、平和が現実になっているとは言い難いのが現状です。いまなお憲法は、現状を克服し問題を解決する手がかりを与えてくれるものなのです。憲法が定めるものは、本来は、最低限の基準です。国民の人権が守られているとか、民主主義が機能しているとかは、あたりまえのことであった欲しいものです。日本国憲法が掲げる人権と民主主義が達成されたならば、さらなる人権の充実と民主主義の拡大のために、理念をかかげ制度をあらためる中で、憲法改正がおこなわれてもいいでしょう。今は、まだ、その段階ではないと考えられます。

(4)憲法とは封印

 第四に、憲法とは、権力者に対する封印のようなものです。権力者の人たちが邪魔だ、封印を解きましょうと言ったからと言って、はいどうぞというわけにはいきません。たとえば、PKO法成立の際、推進する政治家たちは、PKOはむしろ9条違反どころか国際的平和主義に即しているのであると主張しました。そして、いま同じ人たちが九条は時代遅れだから変えましょうと言っています。ときどきの都合で憲法を変えていたら憲法の役割がなくなってしまいます。権力者、あるいは国家権力に対する封印を一度解いてしまったら、もう一度封印するのは大変です。幼い頃聞いたおとぎ話では、いい魔人が登場してくれましたが、現実の世の中では、私たち自身しかいません。私たち自身の頭で冷静に考えることが必要です。

読書案内

 渡辺治『憲法はどう生きてきたか』(岩波ブックレット)、井上ひさし・樋口陽一『「日本国憲法」を読み直す』(講談社)、渡辺治ほか『「憲法改正」批判』(労働旬報社)