(1) 人権とは何か?

 

@人権とは人間の権利である

 人権とは、人であるがゆえに当然に有するとされる権利のことです。そして、憲法に書かれているさまざまな基本的人権は、歴史上それらが侵害されてきたことを示しているのであり、将来においてはこれらの基本的人権の侵害を許さないことの決意を意味するのです。憲法九七条が、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めているのはそういう趣旨です。そして、この条文が「最高法規」という章に含まれているのは、国家の最高のルールとして人権を保障するということが最も大切なものであることを明らかにしたことでもあります。

A人権を大切にすることの意味

 「人権は大切である」と漠然と言うだけでは誰にも異存はないでしょう。しかし、単に理念やメッセージとして大切にすることを説くだけではなく、社会の中の制度として人権を大切にするということはかなりの重みがあるのです。  まず、他の大切なものと比べても、より大切にされなければならないということです。日々の生活の中では、「これの方が楽だ」とか、「これのほうが得だ」とかいうことがあるでしょう。あるいは、好き嫌いもあるでしょう。私たちは、普段は結構このような価値基準で行動し、物事を考えていることが多いように思います。しかし、人権の問題については、このような価値基準ではなく、それに勝るものとして深刻に考えることが大切です。  つぎに、みんなこう思うからということよりも人権は大切です。つまり、民主主義で決めたことよりも人権の方が優越するということです。一人ひとりの自由と平等があってはじめて民主主義がなりたつ前提が形づくられるわけですから、民主主義で自由や平等を奪ってしまうことは間違っています。  このように、人権は大切なものですが、社会における他の大切なものとの攻めぎあい、対立の場面がときとしてあります。だからこそ、漠然と考えるのではなく、何が人権として保障されるべきか、ということが深刻に考えられなければならないのです。

(2) 人権は誰のものか

   まずは、人権は誰のものであるかという話です。こんなことを言うと、おまえはいま「人権は、人が誰でも有する権利である」と言ったのであるから、人であれば誰でも主張できるに決っているだろうとお叱りを受けるかもしれません。しかし、ことはそう簡単ではないのです。

@「国民」とは誰か?

「国民の権利及び義務」 憲法の第三章の表題は、「国民の権利及び義務」となっています。つまり、この章に規定されている基本的人権とは、まずは、国民のものであるということです。  では、「国民」とは一体誰なのでしょうか? 憲法第一〇条は、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と定めています。これを受けて、「国籍法」という法律がつくられています。   「国籍法」    第二条 子は、次の場合には、日本国民とする。     一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。     二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき。     三 日本で生れた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。  国籍法は、基本的には、属人主義にもとづいて、「日本国民」が誰であるかを定めているのです。つまり、血のつながりで日本人かどうかを区別しています。現在の制度では、日本で生まれ日本の社会の中で生活をしていても、帰化をしないかぎり、日本人ではありません。こうなると日本の中で暮らしていても、日本国民ではない人が多くでてきます。とりわけ、国際化が進む現代においてはなおさらです。そこで、日本にいるけれども、日本国民ではない外国人が人権を主張できるかどうかが問題となります。

A 外国人にも人権はあるの?

原則として保障される この点については、基本的人権はおよそ人たるものが当然に持つ権利であることを強調し、また国際協調主義の立場から、外国人も人権の持ち主であることを日本の政府に対して主張できるとするのが一般的な傾向です。しかし、すべての基本的人権が日本人とまったく同じように保障されるというのではなくして、一定の範囲については及ばないとされます。その基準については、権利の性質に応じて判断すべきであるとされるのです。 具体的には? 入国の自由はなく、国際慣習法上、国家の裁量に委ねられていると解されています。その他の自由権は、原則として保障されるべきでしょう。なお、政治的自由については、最高裁判所は狭く考えています(事件を参照)。選挙権は、国政レベルでは認められないと考えられていますが、地方自治体レベルにおいては承認すべきであるという意見が強く、最近最高裁判所も同様の考えを示しました(★★ページ参照)。社会権については、以前は認めないとする考え方が強かったのですが、実際には、現行の社会保障給付にかんする法制度においては、国籍条項を撤廃されています。外国人であれ日本国内に住んでいれば税金を納めなければなりません。ですから、決して私たちが彼らの社会保障を負担しているのではなく、彼らには当然に社会保障の権利があると考えるべきでしょう。 定住外国人の問題 忘れてはならないのは、在日韓国・朝鮮人を中心とする定住外国人の問題である。左のグラフを見てもらえばわかるように、  定住者の約半分を占める在日朝鮮・韓国人の在留には過去の歴史的な事情があります。一九一〇年には、事実上の植民地として日本に併合されます。一五年戦争中には、多くの人を朝鮮半島から強制的に日本へ連行して軍需労働に従事させた上、独立に際しては、外国人として放置したのです。現在の生活実態は、一般の日本国民と変わらない人が多いのです。  一九六五年の日韓地位協定より、永住権が承認されたが、同時に協定に定めのあるもの以外は、すべて外国と同様であることを確認してしまいます。それゆえ、一般の外国人と同じく指紋押捺の義務がありました。しかし、一九九〇年の盧泰愚韓国大統領来日を中心とする一連の交渉やそれに先立つ国内での裁判闘争など(★頁事件参照)を受けて、一定の改善が見られます。九一年四月二六日成立した出入国管理特例法は、日本国との平和条約に基づき日本国籍を離脱した在日韓国・朝鮮人及び台湾人並びにその子孫を対象として、永住許可、再入国許可に関して特例を定めました。指紋押捺に関しては、外国人登録法の改正により、九二年六月一日より廃止され、代替措置として、すべての外国人について、@写真、A署名、B家族事項を届け出ることになったのです。 外国人労働者の問題 世界的な規模での労働市場の成立、多くの外国人労働者が日本に働きに来ることを希望し、様々な形でやってくる。しかし、現在の出入国管理法は、専門的技術・技能を有する者のみに日本国内で労働に従事することを認め、いわゆる「単純労働」には、就労が承認されていません(九一年六月施行の改正でもこの基本的姿勢はかわりませんでした)。その結果、「観光ビザ」で入国し期限までに出国しない者、偽造パスポ−ートで入国する者、「就学生」や「研修生」で入国し実際は単純労働者として働く者が急増することになりました。さらに、これらの背後に、悪質ブローカーが暗躍することになる。  このような「外国人不法就労者」には、最高裁判所が言うように、「人として享有する人権は不法入国者であっても享有することが出来る」(最判一九五〇年一二月二五日)のであり、さらに、労働法上の権利も保障されます(たとえば、賃金の未払いに対しては、外国人不法就労者も賃金請求権を有する。ただし、強制送還されると事実上請求できなくなり、ただ働きになってしまう)。ただ、現実には、十分な保障を受けず、劣悪な労働条件のもとにあります。人権保障の見地からの外国人労働者の保護法制の整備がいま求められています。 Case マクリーン事件  ベトナム反戦運動等の政治活動に関し、外国人に政治的表現の自由があるかどうかが問題となった事件で、最高裁判所は、原則論として、「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみを対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきであ」る、としました。ただ、「在留期間中の憲法の基本的人権の保障を受ける行為を在留期間更新の際に消極的な事実とししんしゃくされないことまでの保障が与えられているものと解することはできない。」と判示した(最大判一九七八年一〇月四日)点については、実質的に政治的表現の自由を認めないものではないかとの批判があります。

B 会社にも人権はあるの?

会社などの法人の人権がなぜ問題なの? 人権のもともとの意味からすれば、その持ち主は生きた人間、つまり、自然人に限られるべきでしょう。実際、市民革命当初は、法人や団体などには人権の享有主体性を認めず、また、結社の自由も承認されませんでした(フランス人権宣言には結社の自由の条項はない)。しかし、現代社会において、団体・結社等に通じて、個々の個人の生活の充実を図ることの必要性はこれを否定しがたいものがあります。そこで、多くの学者と裁判所は、法人にも人権があると考えるのです。 人権は人間のものである 個人の尊厳という原点を重視する立場からは、法人などの団体には、人権主体性が否定されるはずです。基本的人権は、人間の基本的権利であり、人間が人間なるがゆえに当然有する権利という考え方から由来していますので、人間の尊厳という観念に基づいています。それゆえ、そもそも人間個人がその持ち主と考えられるべきです。したがって法人は憲法の保障する基本的人権の主体ではないと考えられます。  民法などで認められている法人はもともと個人が権利を享有する上において必要な法的技術として法律上考え出されたものであって、法人それ自体が個人と同じように基本的人権の持ち主であるとと考えるなくてもいいのではないでしょうか。憲法上は、結社として保障の対象となるものに限り、法人や団体に人権の保障を及ぼせば十分でしょう。 Case 八幡製鉄政治献金事件  八幡製鉄(今の新日鐵)が自民党に政治献金をしたのに対して、株主がそれは会社のやることではないとして裁判を起こした事件です。最高裁判所は、原則論として、「憲法第三章に定める国民の権利および義務の各条項は性質上可能なかぎり、内国の法人にも適用されるものと解すべきである。」とし、さらに政治献金などの政治的行為をなす自由も法人に保障されるとしました(最大判一九七〇年六月二四日)。この考え方によれば、政治資金規正法は、人権を制限している法律ということになるのです。あまり、きびしく政治献金を規制すると人権侵害になりそうです。

(3)基本的人権と公共の福祉

@はじめに 憲法一二条は、「国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」と定め、さらに、13条は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、 最大の尊重を必要とする。」と定めています。これらを読むと、「公共の福祉」がどうも基本的人権の限界または制限の理由となることがわかります。では、「公共の福祉」とは何か? 漠然と「みんなのため」とか「公(おおやけ)のため」では、簡単に人権が制限されることになってしまいます。そこで、これについてどう考えるのかが問題となります。 A基本的人権の調整原理として公共の福祉 憲法一二条と一三条の「公共の福祉」は人権の内在的制約をさだめたもので、二二条一項と二九条の権利は、内在的制約のみならず、政策的な制約に服すると考えるべきでしょう。  まず、内在的制約とは、要するに他人を害してはならないということです。権利の行使が、他人の生命や身体の安全、あるいは尊厳を侵すような場合には、それは人権の行使とはいえず、相互調整を必要とします。たとえば、表現の自由とプライバシーの関係などが考えらるでしょう。なお、思想・信条の自由や一部の人身の自由については、そもそも他人の人権との調整を必要とするものではないから、絶対的無制約であると考えられています。  つぎに、政策的制約とは、憲法二二条と二九条が明記するように、経済的自由に対する制限が内容となります。「政策」的制約と呼ばれるゆえんは、人権の本質から法理論的に帰結され制限ではなくて、立法府を中心とする場で、制約の内容が政策として民主主義的に形成されることをさしています。そして、その政策の内容は、憲法から言えば、たとえば、労働基準法や労働組合法などによる労働者保護のための規制、独占禁止法による私的独占の排除、公害防止・ 環境保全のための規制などのいわゆる社会権の保障をめざすものなのです。 B憲法が実現される舞台としての法律 抽象的には、以上のように整理できますが、具体的な場面にそくして考えられなければなりませんので、以下の具体的な人権保障の事例を通して検討してみてください。そして、多くの問題については、それらを解決するための法律が定められていることが多いので、実際には、それらの法律が設定した舞台の上で、私たちのお互いの人権の調整がおこなわれることがあります。ただ、十分な法制度が存在しない場合には、一般条項という舞台の上で、調整がおこなわれ、憲法の理念が表に出てきます(専門的には、「人権の私人間効力」などと言われます)。たてえば、男女不平等の雇用制度については、いまでは男女雇用機会均等法がありますが、それがない時代では、民法九〇条の「公の秩序及び善良な風俗」という漠然として規定に、憲法一四条の理念が含まれるとして、問題を処理していました。さらに、その舞台である法律自体が役に立たないようであれば、それを否定することが必要ですので、違憲違反としてその法律の効力を否定されることになるのです(違憲立法審査制度)。 参考文献 杉原泰雄『人権の歴史』(岩波書店)、田畑茂二郎『国際化時代の人権問題』(岩波書店)、大沼保昭・徐龍達編『在日韓国・朝鮮人と人権』(有斐閣)、つかこうへい『娘に語る祖国』(光文社)、朝日新聞学芸部『あなたの隣にルポ鎖国にっぽんの「外国人」』(朝日新聞社)、田中宏『在日外国人〔新版〕』(岩波新書)、広瀬道貞『政治とカネ』(岩波新書)、芦部信喜『司法のあり方と人権』(東京大学出版会)