(1) 憲法に書かれていない人権とは?
@例示としての憲法上の人権
以前にも説明したように、憲法に書かれているさまざまな基本的人権は、歴史上それらが侵害されてきたことを示しているのであり、将来においてはこれらの基本的人権の侵害を許さないことの決意を意味するのです。たとえば、日本国憲法三一条以下には人身の自由に関する定めがくわしく書かれていますが、それは戦前において多くの人たちの人身の自由が踏みにじられ、拷問にあって殺されたり、十分な裁判を受けることができなかったからなのです。(★★ページ参照) つまり、憲法に掲げられている基本的人権のカタログは、歴史的な経験に裏打ちされた例示と考えられます。ですから、憲法が制定されたあとも、こんなことをするのは人間を人間として扱いないことであると考えられることがあれば、それを人権侵害であると考えていいわけです。憲法の条文に書かれていないから認められないというのはあまりにも形式的です。 とくに、一九六〇年代以降、従来の人権のカタログには含まれないさまざまな利益要求が、「新しい人権」として主張されるようになりました。たとえば、プライバシー権、平和的生存権、環境権、日照権、眺望権、知る権利、アクセス権、健康権、学習権、静穏権、喫煙権、嫌煙権、自己決定権などです。これらの主張がなされるようになった背景は、一九六〇年代以降のいわゆる高度経済成長の中で、公害、薬害などを典型とするいろいろな問題が顕在化してきたこと、さらには、現代における高度科学技術の進歩が、人間の生活に便利さももたらすとともにさまざまな問題ももたらした状況であると言えます。だとすれば、そこで主張されている価値・利益は、それ自体が新しいのではなくて、それらの価値・利益を新ためて人権として確保しなければならない状況が新しいということに注目しなければなりません。むしろ、それらの価値・利益は、従来においては、当然のごとく各人によって享受されていたものであったのです。A「新しい人権」論
そして、このような「新しい人権」の根拠の一つとして、人権の総則規定である憲法一三条の「幸福追求権」が用いられます。ところで、あまりいろいろな価値・利益を「新しい人権」として主張するのも問題です。人権とは、本来個人の尊厳にもとづくものであって、なにでも人権として主張すればいいものではありません。さらに、人権というのは法律用語ですから法律用語として用いることのできるある程度の厳密さが必要でしょう。ただ、いろいろな「新しい人権」の主張が、法的には厳密な内容を持ったものではなくても、市民運動を通して、世論に問題提起をすることになり、多くの人々の権利・利益の実現に役立っているという側面を見逃してはならないように思います。 ここでは、「新しい人権」の代表的なものとして、プライバシーの権利と自己決定権を取り上げます。(なお、知る権利については、★★ページ以下を参照して下さい。)(2) プライバシーの権利
@プライバシーの権利とは何か
プライバシーの権利は、「ひとりにしてもらう権利」と定義され、相手に対して自分の私生活の中と不当に介入や侵入をおこなわないように求める権利と考えられていました。とりわけ、表現の自由との関係が問題になります(この点については、★★ページ以下を参照してください)。最近では、高度情報化社会のなかで、自らの情報は自分の知らないところで、すでに他人(具体的には、行政や企業)に渡ってしまい、平穏な生活が侵される危機にあるので、そのような情報をコントロールする(閲覧し、訂正し、削除を求める)権利をも含んだものとして、プライバシーの権利を考えるようになってきました。B通信の秘密
憲法二一条二項後段は、「通信の秘密は、これを侵してはならない」と定めています。ここにいう「通信」には、手紙やはがきだけではなく、電報や電話も含まれます。そして、秘密にしなければいけないものの中には、中身だけではなく、たとえば、その手紙がいつ投函されたとか、誰宛に出されたのかなども含まれます。 手紙などは他人とのコミュニケーションをとる手段です。したがって、憲法では、「通信の秘密」は表現の自由が定められている二一条に含まれています。ただ、手紙や電話というのは、一般に広くコミュニケーションをとるというよりも、私生活における緊密なつきあいの間でのやりとりを含むことが多いので、プライバシーの権利のあとのここで触れておきます。 さて、その「通信の秘密」を具体的に守るために、郵便法と電気通信事業法という法律で、秘密を侵してはならず、郵便や通信の仕事に従事する人が職務上知り得たことを洩らしてはならないと定めています。(3) 自己決定権
@自己決定権とは?
個人が一定の私的事項については権力による介入・干渉を受けずに自ら決定することができる権利を、「自己決定権」と呼びます。自己決定権に属する事例としてあげられるものには、各人のライフスタイルをどのようにつくるかといった問題にかかわるものが多くあります。たとえば、長髪・ひげや服装、性的行動、婚姻の自由や離婚の自由、堕胎の自由や出産の自由などです。そして、これらのうち、人として当然に保障されるべきであるとされるものに憲法上の保障を及ぼすべきであるということになります(人権としての自己決定権)。 窮屈な社会に住んでいても窮屈と思わない日本人には、「自己決定権」のような主張は、「わがままな要求」としか考えられないかもしれません。しかし、国際化が言われる現代では、お互いの人格を尊重しあい、お互いのもっている多様性に対して、寛容であることが求められているのではないでしょうか。A校則と自己決定権
自己決定権を侵さないかどうかがとくに問題となっているものに、校則があります。教育の場では、児童・生徒がのびのびとした環境の中で学べることが理想ですが、現実にはなかなかそうはなっていないようです。細々したことまで校則で定めているところもあります。それも、怒られてすめばいいのですが、「学校を止めてもらいます」(退学処分または自主退学勧告)とまで言われると、それはやりすぎではないのかということが問題になります。また、実際に裁判になっているものには、髪型やバイク規制がありますが、これらは学校内の事柄に限ったものではありませんので、そこまで学校が口を出せるのかという問題もあります。各自の経験を思い起しながら、考えて下さい。 Case公立学校における髪形の規制 中学生X君は、学校が丸刈り長髪禁止の校則をつくったにもかかわらず、それに従いませんでした。そこで、X君は、憲法十四条、二一条、三一条などを根拠に、本件校則の無効確認等の主張をおこないました。裁判所は、「髪形が思想等の表現であるとは特殊な場合を除き、見ることはできず、…」として、二一条違反の主張をしりぞけ、校長の裁量権逸脱の主張も、「その内容が著しく不合理でない限り…違法とはならない…」として、しりぞけました。(熊本地判一九八五年一一月一三日) Case修徳高校バイク退学処分事件 高校在学中に、校則で禁止されている運転免許をとり、バイクに乗車したことを理由に退学処分を受けた原告が、損害賠償を求めた事件です。判決では、まず、私学の公共性に鑑みても、憲法13条は直接適用されないとし、憲法違反の主張を退けました。次に、本件校則の違法性について、バイク禁止は「社会通念上十分合理性を有する」しましたが、退学処分については、「他の懲戒処分によっても教育の目的を十分に達しえたものというべきであり、原告にはもはや改善の余地はなく、同人を学外に排除することも教育上やむをえなかったものということは到底できないから」、裁量権の範囲を逸脱した違法な処分であるとしました(東京地判一九九一年五月二七日)。 控訴審も、同様の理由で、原審の判断を維持しました。本件は、確定しています(東京高判一九九二年三月一九日)。 Case修徳高校パーマ退学処分事件 原告は、パーマ禁止等を内容とする校則の違法を主張しました。裁判所は、パーマ禁止校則について、「髪形を自由に決定することができる権利は、個人が一定の重要な私的事柄について、公権力から干渉されることなく自ら決定することができる権利の一内容として憲法一三条により保障されている」としつつも、特定の髪形を強制していないこと、この禁止を知って入学したことを理由として、この校則は無効ではないとしました(東京地判一九九一年六月二一日)。 Caseバイク「三ない」校則退学処分事件最高裁判決 バイク「三ない」校則に違反したとして高校を退学処分になった原告が、校則・処分は違法であるとして、損害賠償を求めた事件です。判決は、まず、「私立学校の校則は直接、憲法判断の対象にならない」とした上で、校則でオートバイの「三ない運動」を定めていることについて「社会通念上不合理といえない」とし、退学勧告についても「原告の行為、反省の状況などに照らしたとき、勧告を違法とはいえない」と結論づけました(最判一九九一年九月三日)。 読書案内 堀部政男『現代のプライバシー』(岩波新書)、同『プライバシーと高度情報化社会』(岩波新書)、ジョ−ジ・オーウェル『一九八四年』(ハヤカワ文庫)、佐野洋『卑劣な耳』(講談社文庫)、森山昭雄『丸刈り校則たった一人の反乱』(風媒社)、山田卓生『私事と自己決定』(日本評論社)、伊佐山芳郎『嫌煙権を考える』(岩波新書)。