第1節 憲法の考え方
(1) 近代市民革命の中から生まれた憲法
国家があるかぎり、そこには、支配=統治する者とされる者が必ず存在する。その両者の関係、つまり、支配=統治関係が、その国家においてなぜ正当なものとして承認されているのか、どのような手続と内容をもって支配をおこなうのか、については、それぞれの国や時代によって異なる。神話(たとえば、古事記や日本書紀)であることもあろうし、伝統や宗教(たとえば、キリスト教)、あるいは慣習であるかもしれない。 しかし、封建制末期の絶対王政が倒された市民革命以降の近代においては、その支配の正当性とその形式についての内容は、「憲法」として定められることとなった。では、いかにして、従来の慣習や伝統(たとえば、王権神授説)を否定し、いままでつくられたことのなかった「憲法」を正当化することができたのか? これをおこなうための法的な道具概念として用いられたのが、「社会契約」あるいは「信託」という概念であった。その考え方のひとつの実例として、ジョン・ロックの『市民政府論』(1690年)における論理をみてみよう。彼の考え方は、17世紀のイギリス革命を正当化し、のちにはアメリカ独立宣言、フランス人権宣言に影響を与え、近代憲法思想の主流をなすものとなり、のちに述べるように、日本国憲法によって「人類普遍の原理」として確認されている。
(2) ジョン・ロックの『市民政府論』における憲法思想
@ 自然状態
自然状態とは、「完全に自由な状態であって、そこでは自然法の範囲内で、自らの適当と信ずるところにしたがって、自分の行動を規律し、その財産と一身とを処置することができ、他人の許可も、他人の意志に依存することもいらないのである。/それはまた、平等の状態でもある。そこでは、一切の権力と権限とは相互的であり、何人も他人より以上のものはもたない。同じ種、同じ級の被造物は、生まれながら無差別にすべて同じ自然の利益を享受し、同じ能力を用いるのであるから、もし彼らすべての唯一なる神が、なんらかの明瞭な権利をその者に賦与するのでない限り、お互いに平等であって、従属や服従がなるべきでない、ということは明々白々であるからである」(p.10. 引用は岩波文庫訳より。以下同様。)。しかし、それは、「放縦の状態」ではなく、「自然状態にはこれを支配する一つの自然法があり、何人もそれに従わねばならぬ。この法たる理性は、それを聞こうとしさえすれば、すべての人類に、一切は平等かつ独立であるから、何人も他人の生命、健康、自由または財産を傷つけるべきではない、ということを教えるのである」(p.12)とされる。 ところで、生命、健康、自由、財産を合わせた意味での所有権〔=property 固有権とも訳される〕の正当性については「たとえ自然の事物は共有のものとして与えられていても、人間は、自分の主人であり、自分自身の一身およびその活動すなわち労働の所有者であるが故に、依然として自分自身のうちに所有の大きな基礎をもっていた」(p.49)と言う。この点では、ロックは、いわゆる労働価値説に立っているとされる。
A 国家の形成
国家の必要性については、実定法、公平な裁判官、法を執行する力が欠如しているために、「自然状態においては、なるほど彼はそういう権利をもっているけれども、しかもその享受ははなはだ不確実であり、絶えず他の者の侵害にさらされている」(p.127) ので、人々は政府=国家をつくるのであると説明する。 そして、その手段は、各人の同意と自然権の一部の放棄であるとされる。すなわち「人が自分の自然の自由を棄て市民的社会の覊絆のもとにおかれるようになる唯一の道は、他の人と結んで協同体を作ることに同意することによってである」(p.100) とされ、さらに、「何人かの人々がおのおのの自分の自然法執行権を棄て、これを公共に委ねるような仕方で一つの社会を結成するならば、そこに、そうしてまたそこにのみ、政治的または市民的社会が存するのである」(p.90)と述べられている。 したがって、「政治権力とは、各人が自然状態でもっていて、社会の手に、従ってまた社会自らがその上に立てた政府〔governor= 統治者〕に、人民の福祉と財産の保持のために使用されるという明示的または黙示の信託〔trust〕 によって譲渡したところの権力」(p.173)であり 、「この権力は社会を構成する人々の契約と協定及び相互の同意のみに由来する」(p.174)のである。
B 国家権力の内容
「政治権力とは、所有権の規制と維持のために、死刑、したがって当然それ以下のあらゆる刑罰のついた法を作る権利であり、そうしてこのような法を執行し、また外敵に対して国を防禦するために協同体の力を用いる権利であり、しかもこれらすべてはただ公共の福祉のためにのみなされる」(p.9)とされる。
C 抵抗権
国家権力がその設立目的と限界を越えて、人民の信託に反して行使された場合には、抵抗権が発生するとされる。しかしながら、信託に違反したかどうかを誰がいつ判断するのかについては、記述が明確ではなく、要するに、各人の良心の中に、ひいては神の法廷に訴えることとなるのである(pp.213-244)。
Column ホッブスとルソー
(3) 憲法の考え方(近代立憲主義)
憲法とは、一人ひとりの人権保障のために、人民の合意と信託によって国家権力が人為的につくられたものであるという考え方を前提とし、その合意と信託の内容、すなわち、国家権力の目的とその行使の限界を明示したものである。これが本来の意味での憲法であり、いわゆる「近代的意義の憲法」と呼ばれるものである。そして、「日本国憲法」が「近代的意義の憲法」であることは「前文」の一節が明確に示している。すなわち、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」とし、これを「人類普遍の原理」と呼ぶのである。そして、このような憲法に則って政治がおこなわれるべきであるという考え方を近代立憲主義と呼ぶ。 しかし、以上のことは建前であり、その背後には少数者による政治的支配の現実が存在することを忘却してはならない。ただ、その政治的支配も裸の抑圧であってはその正当性を維持できないから、憲法の建前に依存しているという面があり、憲法もまた政治的支配を「国民のための政治」という建前で支えているという、相互補完の関係にたつ。 学生諸君の中には、政治家というのは汚職をしたりする悪い人だから憲法で縛るのだと思っている人がいるかもしれない。たしかに、日本の政治家にはそういう人も多い。しかし、汚職をしないというのは、政治家の最低条件であり、それをしないのは当たり前である。憲法は、汚職など決してしない清廉潔白な政治家(たとえば、水戸黄門や大岡越前のような)をも縛ることを目的としている。自己の信念で政治を引っ張って行く人ならば全部お任せにしてもいいのではという風潮がある。しかし、そういう人であればこそ、国民が考えていることとの距離が掛け離れてしまわないように、そして、思い込み過ぎで国民の人権を顧みなくなることのないように憲法をしっかりと守ってもらうことが大切なのである。
Column 「憲法」という言葉
(4) 「憲法」の考え方は世界史の中でどう変わってきたか
@憲法の歴史をたどることの意味
「日本国憲法」は、二〇世紀の中ごろに制定されましたが、その原型が近代市民革命時代の「社会契約」の考え方にあることは述べました。さらに、それと同時に、その後二世紀にわたる人類の経験をも踏まえて、憲法の考え方にもいろいろと修正が加えられています。それゆえに、憲法は、それらのさまざまな対立や矛盾をそれ自身のうちにもっています。たとえば、国家からの自由、消極国家観と国家による自由、積極国家観、あるいは精神的自由、労働者の権利と経済的自由の対立などです。日本国憲法も、これらの対立を意識しながら、理解することが大切です。これが憲法の歴史を学ぶことの意味です。A否定されるものとして「封建体制」
封建時代は、農業を主な産業とする経済社会であり、領主が土地を所有し、農民にその使用権を与え、その見返りとして地代を搾取していました。農民は自ら生産用具を有し、自らの責任で生産をおこないましたが、武力、慣習、宗教的権威などの経済外的強制によって、その土地を離れることは許されず、移動の自由はなく、信教の自由もありませんでした。 領主は、さらに上位の領主によって封建的土地所有を認められる代わりに、軍事的な負担を負っていました。このような身分的主従関係の頂点に国王がいたのです。封建制末期には農民層の分解が進み、地代として取りあげられる分や生活に必要な分以上の生産物(剰余生産物)を商品として売買するようになります。しかし、従来の封建的な経済のしくみを維持しようとする必要から大きな力を持った絶対王政が登場し、さらに一層進展する商品生産の展開と対立するようになります。B近代市民革命
近代市民革命とは、ややむずかしくなりますが、新興の諸階級(商人、独立自営の農民など)が、君主を盟主とする封建的な支配階級(僧侶、貴族、地主など)から国家権力を奪い、個人の自由と国民主権をその理念として掲げる国家をつくりだすプロセスのことをいいます。このような社会の大きな変動を支えて正当化した考え方が、先に説明しました「社会契約論」であったのです。C消極国家・自由放任主義と人権の「分裂」
このように認められた自由も、産業革命のあとでは、それだけでは人間の幸福な生活を実際に保障するのものではなくなってしまいました。産業革命の結果、機械制大工業が展開し、まとまったお金をもって工場をつくり機械を導入して多くの人々を集めて物をつくるようになる資本家と、そこで働くしか生活の糧を手に入れる手段がない労働者とが出てきます。他方で、自由放任主義(レッセ・フェール)が強調され、社会にできるだけ介入しない消極国家・夜警国家こそが国家のありかたとしてふわさしいとされます。その結果、自由は実際には経済力をもっている者のみの自由となり、契約の自由によって、労働者はいつ解雇されるかもしれないし、非常にひどい労働条件の下におかれ、資本家は、価格協定を結ぶなどの独占をおこなうことが自由となってしまいました。 このような産業革命のあとの労働者がおかれた状況を象徴するのが、大都市のスラム街です。下水設備もなく、不衛生な密集した住宅街で、家族が家具もない一部屋で、わらをベッドとして生活していました。一度伝染病が発生すれば、またたく間にひろがって多くの犠牲者を出たのです。 労働者自身だけではなく、労働者の家族、たとえば、妊婦や子どもさえも朝から夜遅くまで働らかざをえなくなりました。まったくの自由ですから、いまのように労働基準の規制などありません。子どもも八、九歳から働き、労働時間は毎日一四〜一六時間にも及んだと言われています。 母性保護の規制もありませんから、妊娠しているときにも、出産直前まで工場で働き、職を失わないように三、四日後には工場にもどり、労働時間いっぱい働いたそうです。D現代憲法の特質
第一次世界大戦や世界恐慌などにより、国家のあり方が大きく変わっていきます。従来の消極国家に変わって、経済に介入していく積極国家が求められ、さらに、とりわけ、第二次世界大戦には、国家による社会保障を担うべきであるとする「福祉国家」が求められます。その結果、経済への介入や社会保障などを行政が担当するため国家の中での行政の比重が高まり「行政国家」と呼ばれるようになります。 このような国家の介入は、生存と福祉に対する国家の責任を確認することにとどまらず、経済活動の自由を制約することを同時に含みます。多く労働者の生存と福祉を守るためには、彼らの雇っている側の経済活動の自由に制限を加えなくてはならないからです。これをはじめて明示したのが、一九一九年のドイツのワイマ−ル憲法の社会化条項と呼ばれるものです。それは、経済的自由が、すべての人に、人であるに値する生存を保障することをめざす正義の原則にふさわしいものでなければならないことを明らかにし、労働者の団結の自由を保障したものでした。日本国憲法にも、この考え方が受け継がれ、憲法二五条以下に社会権が(★★ページ以下を参照してください)、そして、二二条と二九条の経済的自由に対する公共の福祉による制約が定められています(★★ページ以下を参照してください)。読書案内